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大切なことは小学3年生の時に教わっていた。

息子が小学3年生になりました。

ついこの前入学したような気がするが、全く時というのは経つのが速いもんです。3年生っぽい…というのがどのようなものなのかはわからないけど、本人も多少は自覚はしてるみたいです。とはいえ、まだまだ甘える場面も多々。しかしながら彼は、誰に似たのか人のふところに入るのが上手いようで、大人にかわいがってもらっている。そんなことも甘えに繋がっている気がするが、それもまぁ彼の「才能」なのかもしれないって全くもって親バカ発言です(笑)

さて、息子のことを話し出すと3000字くらいになりそうだし、誰得?なので、速やかにやめます。

小学3年生….と聞くと、思い出すことがある。

ボクが小学3年生だった時のことだから、遥か昔のこと。担任の先生は女性で、確か山田先生だったはず。下の名前は忘れてしまった。ごめんなさい。その山田先生は、体育会系(当時はこんな言葉はなかったが)で、いつもジャージだったイメージ。とてもキビキビしてて、元気で、声が大きかった。体育の時間などは、一緒になって走ってくれるのでとても楽しかった思い出がある。

人気の先生だった。

しかし、怒るとコワかった。

怒っているのだからコワイのは当たり前のことだが、1年2年とややほわほわと過ごして来た児童たちにとって、激しく怒る先生というのはある意味「3年生からの新たな試練」のようだった。

そんなある日の朝。いつものように朝礼の時間に山田先生が教室に入ってきた。先生が教壇に向かって歩く様子を全員で目で追う。中央の机の前に立つと日直が号令をかけることになっている。そして、いつも通り、今にも立ち上がりそうな体制で「起立!」の号令を待っている時だった。友人のAくんがボソッとこう言った。

「今日は機嫌が良さそうだ。」

そのセリフは山田先生の耳に入ってしまった。

「誰?今言ったの?」
「機嫌が良さそうだ、とは何事だーーーーーー!」

もうイキナリレッドゾーンです(苦笑)

Aくんを殴りそうな勢いで怒っていた。確か。。。

もうボクは、とにかく怒鳴られたことで萎縮しちゃって(自分が言ったワケじゃないのにw)、ただただ下を向くばかり。

しかし、今思い出してもハンパない怒り方だったと思う。その後どうなったのかは全く覚えていないww

あれから30年以上。

時々あの時のことを思い出す。むしろ3年生の思い出は他にない(笑)いつかAくんに会ったら、本人にも聞いてみたいなぁと思ってる「あの時怒られたの覚えてる?」って。

そしてようやくだと思うが「なんで、山田先生はあんなに怒ったのだろうか?」って考えるようになった。最近になってやっとだ。

他人の評価を良く目にする時代。

SNSでもの投稿もそうだが、グルメ系のポータルサイトやGoogleの口コミなどなどで、一般の人たちが気軽に「評価」をして、ご丁寧にそれを発信する時代です。星の数だったり、点数だったり、コメントだったり。Amazonでお買い物する時もその商品のレビューを参考にしますよね。あのレビューだってまさに「評価の発信」に当たる。ボクもあのレビューは参考にする時がある。

評価の発信をする人は、恐らくなんらかの使命感を持っているのだろう。誰かの役に立つハズ!と言うような。

しかし、評価された側はたまったもんじゃない。

良い評価ならまだしも、そればかりではないことはご存知の通り。ボクも友理が評価されたなんらかの投稿や記事を見てしまうことがあるけど、それが酷いネガティブな内容だった場合の心の傷つきようと言ったら、ガッカリを通り越して、ショック。それを長いこと引きずってしまう。良い評価の内容は覚えてもいないのに。

これなんかまだ優しい方(笑)

気にしないつもりでいても、気になってしまう。そんなことに振り回されるのはバカらしいことはなんとなくわかっているから、見ないように気をつけているけど、やはり忘れた頃に目についてしまって、また気落ちしてしまうこともある。

恐らくたぶん、自分がSNSにどっぷり浸かっているからいろいろな評価が目につきやすいのだろうと思う。そして、そうした他人からの評価を見るたびに、山田先生に怒られたあの時の事をリンクさせて思い出していることにも気づく。

出てない出てない(笑)

「機嫌が良さそうとは何事だ!」と怒った山田先生、今思えば「人の顔色を伺って、その顔色次第で態度を変える」という意思がうかがい知れたから怒ったのではないか?

一方、ネット上での他人からの評価を気にしてしまうことについても、同様に人の顔色を伺っていることに変わりない。

評価軸がどっちにあるのか?

つまりボクが思うに、【評価軸】という言葉があるとしたら、この評価軸が他人にあることが共通点なのだと思う。山田先生の機嫌という他人の評価軸、ネット上の口コミの良し悪しという他人の評価軸。この他人の評価軸を気にしすぎてしまっている。「あの人はどう思ってるのかな?こうしたら変な事言われちゃうかな?」と言うように。ここには自分がどうしたいのか?自分がどう思うのか?という自分の評価軸が存在していないことが問題なのだ。きっと。

小学3年生のあの朝、山田先生がどういう表情をしていようが、日頃ネット上で誰が何を言おうが、自分がどうしたいのか?どうするべきなのか?自分が正しいと思うことはなんなのか?という自分の軸をしっかりと持っていれば、他人からの声は関係ない、むしろ耳に入ってもスルーできるのだろうと思う。

そんな事を思ってまとめ的なツイートをしたら、結構共感して頂いたみたいなので貼っておきます。


大事なことは140文字で大体伝わる。

大切なことは小学3年生の時に教わっていた。

振り返ればこれまでの人生、他人がどう思うのか?という考えに支配されていた時期が多々あったと思う。高校時代の部活でも厳しい監督の機嫌を伺いながら練習・試合をしていた気がする。自分がどこまでの選手になりたいのか?という意思は二の次だった気がする。

サラリーマン時代にも、そんな事があったかもしれない。具体的には思い出せないけど。

もし、あの小学3年生の朝、山田先生に怒られた瞬間に「なんでおこられたのかな?」って少しでも考えていたら、その後の人生ちょっとは違った気持ちで過ごせたのかもしれないなーーなんて思う。でもあの当時のボクには「もう機嫌がいいって言っちゃダメだな。」って思うのが精いっぱいだった。

しかし、今さらながら気がついたとしても山田先生には感謝しかない。よくぞこの年齢まで覚えているくらい猛烈に怒ってくれた!と(笑)

そして新3年生となった息子にもこれからいろんな試練が起こるんだろうなぁ〜としみじみ考えてみたりする。ものすごい勢いで先生に怒られるとか(笑)そんな時があれば、いいアドバイスができるといいのだが。

では。

結局3000字弱になってもうたやん。

そいぎんた!

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